育児未経験の子どもと大人の間による教育こうだったらいいなマニュアル①
24歳女です。
教養について
❶正しい音感を
毎日どこか同じタイミングで音叉でも叩いて、音感を養ってあげたい。
学生時代、年一回は合唱のタイミングが来るものです。ピアノを上手に弾けなくても、音痴でないだけで趣味の幅は広がります。
私は全く音楽経験なしで中学の頃吹奏楽部に入り、天性の音感もなく楽譜も読めずでなかなか苦労しました。
❷色に豊かで
年少の頃1年だけ通った幼稚園では、オリジナルの知育をしてくれて、今でも記憶に残って感謝しているのが、色水です。
ガラス容器に原色が入っているおもちゃで、3歳にして加法混色を理解しました。
また、その頃に24色の色鉛筆を与えられました。
悪く言えば大人気のない母と塗り絵をすると、幼稚園児の発想では選ぶことのない「しゅいろ」を選んでいた衝撃は今でも忘れません。
❸地図を身近に
私は地理が大の苦手です。
中学生まで語感だけで地方を覚えていたせいで、インドとドイツの違いがわかりませんでした。
北海道で育ったため、日本地図を覚えるのにも大変不利でした。
隣接している県もなければ、地方の概念もなく、親戚がいるといえば首都圏。
景色と紐付けておぼえたところでないと近所でも道に迷うような人間です。
色んなところに連れて行きたい。地図を覚えられるゲームがしたい。(東問・言兄弟のゲーム)
❹算数を具体的に
一緒に目の前でいうどんな事象なのか、なんで単位はこれなのか、
子どもの頃は教えられた通りに覚えたけれど、大人になってから仕組みを納得したものも多いので、早くに理解させてあげたい。
❺習い事
水泳はマスト。
体育が本当に苦手な私も習っていましたが、学校の先生も詳しく教えていられないのにできないと毎年困る競技なので。
陸上や球技と違って、どんなに運動神経がよくても練習しないとスタートラインに立てない競技のため、習っていて良かったと思います。
❻英語が自然に聞こえてくる家
母国語なのかというくらい英語に触れていれば、複数言語処理できる癖がつくのではないかというある種実験的発想です。
私は高校英語でセンターのための暗記ばかりさせられることに嫌気がさして勉強こそやめましたが、小学生までは英語が嫌いではなかったし、今でも洋画は吹き替えなしで雰囲気を楽しみたいと思う派です。
ただ私は全然話せないので、一緒に話せるようになれたらな。
❼タイピング
スマホ世代の私は、フリック入力が一番得意です。(ちなみに3dsチャットガチ勢だったので五十音表での打ち込みは当時日本屈指レベルだったと自負しています)
大学生の頃はデザイン専攻だったため、レポートで文字を打つことよりもデザインソフトのショートカットにキーボードを使っていたため、ほとんど指3本くらいでPCを触っていました。(今では考えられませんがマウスも使わなかった)
新卒研修で社内に勝る人がいないレベルで速かった同期は、今普通に仕事している私の倍以上の速度で文字を打つそうです。
自然にできるようにはなるけれど、できるに越したことはないので。
❽薄めの味付け
私の母は味付けが薄めでした。
気づかずいられる程度ですが、自分で再現しようとすると難しいくらいです。
子供の舌は敏感なので健康面でも教養面でも、濃い味は自立した時で好きにするがいいかと。
❾家事はやろうと思えばできるし、苦じゃないように
私は幼少期に手伝いを申し出ると断られて(やらせるのも大変)、だんだん「無理にやらなくてもいいか、、、」と面倒になってしまったので、やりたがっているうちにやらせて褒めたい。
ちなみに私がペーパードライバーな理由も同じです。
自然に、自発的にやっておいてくれるくらいが自立にちょうどいいかも。
➓人に迷惑がかからない程度の自由さ
手も口もなるべく出さないように、だけど見ているというのは監督するのも大変ですが、、、
「だめ!危ない!」の禁止よりも「はさみってここで紙切るでしょ。ここ触ったら手も切れちゃうかもしれないよ」みたいな助言をしてあげたいですね。
育児未経験の子どもと大人の間による教育こうだったらいいなマニュアル①
24歳女です。
教養について
❶正しい音感を
毎日どこか同じタイミングで音叉でも叩いて、音感を養ってあげたい。
学生時代、年一回は合唱のタイミングが来るものです。ピアノを上手に弾けなくても、音痴でないだけで趣味の幅は広がります。
私は全く音楽経験なしで中学の頃吹奏楽部に入り、天性の音感もなく楽譜も読めずでなかなか苦労しました。
❷色に豊かで
年少の頃1年だけ通った幼稚園では、オリジナルの知育をしてくれて、今でも記憶に残って感謝しているのが、色水です。
ガラス容器に原色が入っているおもちゃで、3歳にして加法混色を理解しました。
また、その頃に24色の色鉛筆を与えられました。
悪く言えば大人気のない母と塗り絵をすると、幼稚園児の発想では選ぶことのない「しゅいろ」を選んでいた衝撃は今でも忘れません。
❸地図を身近に
私は地理が大の苦手です。
中学生まで語感だけで地方を覚えていたせいで、インドとドイツの違いがわかりませんでした。
北海道で育ったため、日本地図を覚えるのにも大変不利でした。
隣接している県もなければ、地方の概念もなく、親戚がいるといえば首都圏。
景色と紐付けておぼえたところでないと近所でも道に迷うような人間です。
色んなところに連れて行きたい。地図を覚えられるゲームがしたい。(東問・言兄弟のゲーム)
❹算数を具体的に
一緒に目の前でいうどんな事象なのか、なんで単位はこれなのか、
子どもの頃は教えられた通りに覚えたけれど、大人になってから仕組みを納得したものも多いので、早くに理解させてあげたい。
❺習い事
水泳はマスト。
体育が本当に苦手な私も習っていましたが、学校の先生も詳しく教えていられないのにできないと毎年困る競技なので。
陸上や球技と違って、どんなに運動神経がよくても練習しないとスタートラインに立てない競技のため、習っていて良かったと思います。
❻英語が自然に聞こえてくる家
母国語なのかというくらい英語に触れていれば、複数言語処理できる癖がつくのではないかというある種実験的発想です。
私は高校英語でセンターのための暗記ばかりさせられることに嫌気がさして勉強こそやめましたが、小学生までは英語が嫌いではなかったし、今でも洋画は吹き替えなしで雰囲気を楽しみたいと思う派です。
ただ私は全然話せないので、一緒に話せるようになれたらな。
❼タイピング
スマホ世代の私は、フリック入力が一番得意です。(ちなみに3dsチャットガチ勢だったので五十音表での打ち込みは当時日本屈指レベルだったと自負しています)
大学生の頃はデザイン専攻だったため、レポートで文字を打つことよりもデザインソフトのショートカットにキーボードを使っていたため、ほとんど指3本くらいでPCを触っていました。(今では考えられませんがマウスも使わなかった)
新卒研修で社内に勝る人がいないレベルで速かった同期は、今普通に仕事している私の倍以上の速度で文字を打つそうです。
自然にできるようにはなるけれど、できるに越したことはないので。
❽薄めの味付け
私の母は味付けが薄めでした。
気づかずいられる程度ですが、自分で再現しようとすると難しいくらいです。
子供の舌は敏感なので健康面でも教養面でも、濃い味は自立した時で好きにするがいいかと。
❾家事はやろうと思えばできるし、苦じゃないように
私は幼少期に手伝いを申し出ると断られて(やらせるのも大変)、だんだん「無理にやらなくてもいいか、、、」と面倒になってしまったので、やりたがっているうちにやらせて褒めたい。
ちなみに私がペーパードライバーな理由も同じです。
自然に、自発的にやっておいてくれるくらいが自立にちょうどいいかも。
➓人に迷惑がかからない程度の自由さ
手も口もなるべく出さないように、だけど見ているというのは監督するのも大変ですが、、、
「だめ!危ない!」の禁止よりも「はさみってここで紙切るでしょ。ここ触ったら手も切れちゃうかもしれないよ」みたいな助言をしてあげたいですね。
育児未経験の子どもと大人の間による教育こうだったらいいなマニュアル①
24歳女です。
教養について
❶正しい音感を
毎日どこか同じタイミングで音叉でも叩いて、音感を養ってあげたい。
学生時代、年一回は合唱のタイミングが来るものです。ピアノを上手に弾けなくても、音痴でないだけで趣味の幅は広がります。
私は全く音楽経験なしで中学の頃吹奏楽部に入り、天性の音感もなく楽譜も読めずでなかなか苦労しました。
❷色に豊かで
年少の頃1年だけ通った幼稚園では、オリジナルの知育をしてくれて、今でも記憶に残って感謝しているのが、色水です。
ガラス容器に原色が入っているおもちゃで、3歳にして加法混色を理解しました。
また、その頃に24色の色鉛筆を与えられました。
悪く言えば大人気のない母と塗り絵をすると、幼稚園児の発想では選ぶことのない「しゅいろ」を選んでいた衝撃は今でも忘れません。
❸地図を身近に
私は地理が大の苦手です。
中学生まで語感だけで地方を覚えていたせいで、インドとドイツの違いがわかりませんでした。
北海道で育ったため、日本地図を覚えるのにも大変不利でした。
隣接している県もなければ、地方の概念もなく、親戚がいるといえば首都圏。
景色と紐付けておぼえたところでないと近所でも道に迷うような人間です。
色んなところに連れて行きたい。地図を覚えられるゲームがしたい。(東問・言兄弟のゲーム)
❹算数を具体的に
一緒に目の前でいうどんな事象なのか、なんで単位はこれなのか、
子どもの頃は教えられた通りに覚えたけれど、大人になってから仕組みを納得したものも多いので、早くに理解させてあげたい。
❺習い事
水泳はマスト。
体育が本当に苦手な私も習っていましたが、学校の先生も詳しく教えていられないのにできないと毎年困る競技なので。
陸上や球技と違って、どんなに運動神経がよくても練習しないとスタートラインに立てない競技のため、習っていて良かったと思います。
❻英語が自然に聞こえてくる家
母国語なのかというくらい英語に触れていれば、複数言語処理できる癖がつくのではないかというある種実験的発想です。
私は高校英語でセンターのための暗記ばかりさせられることに嫌気がさして勉強こそやめましたが、小学生までは英語が嫌いではなかったし、今でも洋画は吹き替えなしで雰囲気を楽しみたいと思う派です。
ただ私は全然話せないので、一緒に話せるようになれたらな。
❼タイピング
スマホ世代の私は、フリック入力が一番得意です。(ちなみに3dsチャットガチ勢だったので五十音表での打ち込みは当時日本屈指レベルだったと自負しています)
大学生の頃はデザイン専攻だったため、レポートで文字を打つことよりもデザインソフトのショートカットにキーボードを使っていたため、ほとんど指3本くらいでPCを触っていました。(今では考えられませんがマウスも使わなかった)
新卒研修で社内に勝る人がいないレベルで速かった同期は、今普通に仕事している私の倍以上の速度で文字を打つそうです。
自然にできるようにはなるけれど、できるに越したことはないので。
❽薄めの味付け
私の母は味付けが薄めでした。
気づかずいられる程度ですが、自分で再現しようとすると難しいくらいです。
子供の舌は敏感なので健康面でも教養面でも、濃い味は自立した時で好きにするがいいかと。
❾家事はやろうと思えばできるし、苦じゃないように
私は幼少期に手伝いを申し出ると断られて(やらせるのも大変)、だんだん「無理にやらなくてもいいか、、、」と面倒になってしまったので、やりたがっているうちにやらせて褒めたい。
ちなみに私がペーパードライバーな理由も同じです。
自然に、自発的にやっておいてくれるくらいが自立にちょうどいいかも。
➓人に迷惑がかからない程度の自由さ
手も口もなるべく出さないように、だけど見ているというのは監督するのも大変ですが、、、
「だめ!危ない!」の禁止よりも「はさみってここで紙切るでしょ。ここ触ったら手も切れちゃうかもしれないよ」みたいな助言をしてあげたいですね。
わたしについて
都会でも田舎でもない、
とくべつ厳しくも緩くもない父母のもとで
まあまあ几帳面に育てられた24歳女です。
次回から「育児未経験の子どもと大人の間による教育こうだったらいいなマニュアル」というものを書いていきたいと思います。
「こんなこと言ってるやつ、どんな育ちなの」と自分なら思うので先に書いておこうと思いました。
まず、マニュアルを書こうと思った理由について
これまで部活、バイト、仕事などでリーダーを任される中で、私はあまりに不器用でした。
なる前となった後では、圧倒的に視野が狭くなってパフォーマンスが下がる経験を何度もしてきました。
「自分ならこうする」と思っていたものを思い出す余裕がなくなる前に、いざ自分がする立場になったときのためにお守りとして残しておこうと思います。
子育ては、誰しもされてきた経験があり、教養や人格形成にはそれが少から影響します。
されていたころの記憶がまだある、書き起こす余裕がある、かつする立場になるかもしれない今だから書けることを、、、。
長くなりましたが、わたしの生い立ちについて
冒頭にあるように、大きな不自由なく育ちました。
2000年に第一子として30代前半の父と母のもとへ生まれました。
今より高卒が多かった時代ということもあり、同級生よりも親がいくつか歳上の印象でした。
父は転勤が多いそれなりの会社員で、母は私が中学生になるまでは専業主婦だったので、幼少期はほとんど母と過ごしました。
母は父親を早くに亡くし、女手ひとつで店を切り盛りしながら育児をする家の四兄弟の末っ子として昭和後期を育ってきたため、恥をかくことが多かったそうです。
それに加えて父方の実家では、父も優秀ですが歳の離れた弟の方がより優秀という劣等感を抱えていたそうです。しかし、彼は当時未婚、私は結婚後5年待った初孫でした。
そんな母のリベンジ精神と父方(の主に祖母)の期待を背負って、それはそれは丁寧に育てられました。
結果、Z世代特有の、転べない育ち方でした。
転びそうなことは先に「そんなことしてたら転ぶよ。」と忠告され、
お手伝いを申し出ると、「危ないからだめ。」「大丈夫だから向こうで遊んでなさい。」と任されない。
功を奏してか、よくいる元気に叫んで走り回ったり、土足でどこでも登ったりする質ではなかったと自覚しています。
「親は注意しないのか」という世間の目と「子どもには自由にのびのびと」という最近の風潮もわかっている今、その選択肢に気付ける常識を教育してもらえて良かったと思っています。
4歳の頃、弟が生まれました。
前述の通りほぼ母のワンオペで、物心がついてからのきょうだいのため、母親をとられた自覚がしっかりありました。
母は「歳の離れた姉が苦労していたのを知っているかれ絶対に言っていない」と主張しますが、「お姉ちゃんなんだから」は言われました。
また、周りは2,3歳差のきょうだいが多く、少しだけ離れている印象でした。
男児の精神年齢の低さも加算されて遊び相手としても難しいのに、ともだちとの遊びに混ぜてあげないと私が怒られ、ともだちは当時ひとりっ子だらけで弟を大変可愛がりました。
弟が生まれた頃、父の転勤で幼稚園を転園しました。
わたしについて
都会でも田舎でもない、
とくべつ厳しくも緩くもない父母のもとで
まあまあ几帳面に育てられた24歳女です。
次回から「育児未経験の子どもと大人の間による教育こうだったらいいなマニュアル」というものを書いていきたいと思います。
「こんなこと言ってるやつ、どんな育ちなの」と自分なら思うので先に書いておこうと思いました。
まず、マニュアルを書こうと思った理由について
これまで部活、バイト、仕事などでリーダーを任される中で、私はあまりに不器用でした。
なる前となった後では、圧倒的に視野が狭くなってパフォーマンスが下がる経験を何度もしてきました。
「自分ならこうする」と思っていたものを思い出す余裕がなくなる前に、いざ自分がする立場になったときのためにお守りとして残しておこうと思います。
子育ては、誰しもされてきた経験があり、教養や人格形成にはそれが少から影響します。
されていたころの記憶がまだある、書き起こす余裕がある、かつする立場になるかもしれない今だから書けることを、、、。
長くなりましたが、わたしの生い立ちについて
冒頭にあるように、大きな不自由なく育ちました。
2000年に第一子として30代前半の父と母のもとへ生まれました。
今より高卒が多かった時代ということもあり、同級生よりも親がいくつか歳上の印象でした。
父は転勤が多いそれなりの会社員で、母は私が中学生になるまでは専業主婦だったので、幼少期はほとんど母と過ごしました。
母は父親を早くに亡くし、女手ひとつで店を切り盛りしながら育児をする家の四兄弟の末っ子として昭和後期を育ってきたため、恥をかくことが多かったそうです。
それに加えて父方の実家では、父も優秀ですが歳の離れた弟の方がより優秀という劣等感を抱えていたそうです。しかし、彼は当時未婚、私は結婚後5年待った初孫でした。
そんな母のリベンジ精神と父方(の主に祖母)の期待を背負って、それはそれは丁寧に育てられました。
結果、Z世代特有の、転べない育ち方でした。
転びそうなことは先に「そんなことしてたら転ぶよ。」と忠告され、
お手伝いを申し出ると、「危ないからだめ。」「大丈夫だから向こうで遊んでなさい。」と任されない。
功を奏してか、よくいる元気に叫んで走り回ったり、土足でどこでも登ったりする質ではなかったと自覚しています。
「親は注意しないのか」という世間の目と「子どもには自由にのびのびと」という最近の風潮もわかっている今、その選択肢に気付ける常識を教育してもらえて良かったと思っています。
4歳の頃、弟が生まれました。
前述の通りほぼ母のワンオペで、物心がついてからのきょうだいのため、母親をとられた自覚がしっかりありました。
母は「歳の離れた姉が苦労していたのを知っているかれ絶対に言っていない」と主張しますが、「お姉ちゃんなんだから」は言われました。
また、周りは2,3歳差のきょうだいが多く、少しだけ離れている印象でした。
男児の精神年齢の低さも加算されて遊び相手としても難しいのに、ともだちとの遊びに混ぜてあげないと私が怒られ、ともだちは当時ひとりっ子だらけで弟を大変可愛がりました。
弟が生まれた頃、父の転勤で幼稚園を転園しました。
絵の話
え!絵上手だね!
まだ絵は完成していなかった。
2歳児にしてお世辞だと思って聞き流そうとした、幼馴染のママに言われたこの言葉が始まりだった。
だって、もう全身描いてるでしょ?
不思議に思って隣を見ると、幼馴染は丸で目と口と輪郭を描いて嬉しそうにやり切った顔をしていた。
私の母は自身が末っ子で、私が第一子だからか、周りと比べずに育てたのであまり私を褒めなかった。
それどころか子ども相手にあれも違うこれも違うと常に正しい方に導き、走ったら転ぶよと慎重に慎重に育てた。
それに、私の中で母はいつも完璧だった。
家政科の高校を出ているので料理や裁縫など器用にこなし、失敗しているのを見たことがなかった。
絵も上手で描きたいものがあると、母に聞けばお手本を描いてもらえた。
字が読めない私のためにVHSにはアニメのタイトルの下にキャラクターの絵を描いてくれた。私が寝ている間に描くので、初めて見たとき本当は公式のシールなんじゃないかと思った。
カードキャプターさくらにハマると、朝枕元にケロちゃんのぬいぐるみがあった。ステッキも作ってくれた。
読み書きの練習中に、机の向かい側から私の手元に向かって上手に「よ」を書いたとき、手品だと思った。
器用なのは母だけではなかった。
父とオムライスを食べると、上手にアンパンマンを描いてくれた。鼻と頬にはしっかり丸と四角のツヤが描かれていたが、私にはこれが何だかわからなかった。
アリがどんな虫かわからず、母が不在だったのでダメ元で父に聞くと、自信なさげながらも完璧なアリを描いてくれた。
祖母も絵が得意だった。
そして母以上に厳しい人だった。
誰もが描くようにアイコニックに3秒で描いたチューリップを披露すると、チューリップの花びらはこのように別れていて、葉はスマートなのよと指摘された。
こうして写実派の英才教育を受けた私の3歳の頃に祖母に贈った似顔絵は、眼鏡の鼻当てまで細かく描かれているし、年長になる頃には下睫毛までしっかり描かれた幼女らしからぬタッチとなる。
幼稚園や小学校の自由時間は友だちと絵を描いて過ごした。
この頃にはもう母の絵を見ることは無くなって、ただひたすら女の子の絵を描いていた。
ある日小学一年生らしく中庭で朝顔の花を観察して絵を描く時間があった。
小学校での画材は手が汚れないのでクーピーペンシルが指定されていた。
基本的に12色セットなので、朝顔の綺麗なグラデーションを表すには無機質なピンクと紫では満足できず、同系色をぐりぐりと重ねた。
さすがにまだ絵の具も使えない小学一年生に求めていたクオリティではなかったらしく、先生に見つかってクラスのみんなの前で斬新さを褒められた。
夏休みに10歳上の従姉妹と会った。
従姉妹もまた絵が上手かった。
リンゴを書いてごらんと言われて、また3秒で描けるよくあるリンゴを描いた。
従姉妹のリンゴはアルファベットの小文字のiのような模様で白抜きになっていた。
「これなに?」と聞くと、「ツヤだよ。」と答えた。
従姉妹のリンゴはぷっくりしていて可愛いということだけは理解できた。
父がアンパンマンの鼻と頬に描いた丸と四角がこれだということには少し後に気づいた。
小学校1年生にして目以外にも光と影の装飾を施すことを知った。
それから2年後、従姉妹が絵の専門学校へ進学した。
従姉妹は夏休み中、課題で毎日絵を描いていた。絵を描くだけの課題なんて羨ましいと思いながら私も隣で絵を描いていた。
今思えば従姉妹は毎日少し苦戦した表情で描いていた。あまり思い浮かばない様子で、絵を見せてくれなかった。
ある日、私の自由帳に絵を描いてとせがんだ。
上手じゃないよ、と渋りながらも課題ではないからなのか、いつもよりさらさらとあっという間に絵をふたつ描いてくれた。
自分の絵の稚拙さに気がつくには十分な年齢だった。
私はこの絵を自由帳から切り離して今でも大切に持っている。
この頃から人に絵を見せるのがこわくなった。
翌年頃に、同級生が朝の会で漫画を趣味で描いているのでぜひみんな読んでくださいと発表した。
その光景を見ているのがなんだか恥ずかしくて、私は読みたがるフリをして読まなかった。
それから、描きたいものが思い浮かばなくなって、こっそり描いていた漫画もペンが止まってしまった。
絵を描くことは今でも好きだけれど、描こうとペンを握った瞬間描きたいものが浮かばない。
合う合わない談義
アルバイト時代、面接前の店長から言われたことがあります。
「合わないなって人いる?」
店長はなかなか堅物なので、入ってくる人に傾向があることはバイトの間でかなり有名でした。
まず、店長自身が学生時代に打ち込んだので、バドミントン経験者は採用されやすい。
そして他の続いている社員とバイトの成功体験からバレー、吹奏楽経験者も必ず採用されます。
あとは部活を続けたことがあれば好感触で、近所の旧帝大生もよく採用されます。
こんなに傾向があるにもかかわらず、店長は人を見る目がなく、「一見真面目そうなのにやっと使えるようになってきたタイミングで急に辞める人」が7割でした。
残り3割の、「最初は不器用でも折角覚えた仕事をなかなか辞められずに結局卒業まで続ける人」でなんとか回している店でした。
スペックでしか人を判断できないのか、入ってからは一度思い込んだ第一印象が決して覆らないので、人の成長に目を向けられていないのが一目瞭然でした。
そんな店長から訊かれた「合わないなって人いる?」には返す言葉が見当たらず、「え、、、いません」と答えました。
私にも仲良くなれなかった人はもちろんいます。
直感が働く質なようで、第一印象で「おっと、、、」となる人は居るのですが、好奇心からなのか、まず誰とでも仲良くなってみたいと思うので折角働いた直感を無視することになります。そして近寄っては、心にもないことを言われるなどして疲れて、やっぱりだめだったなと思います。
食べ物に関しても、大人になってなおはじめて食べるものに対しては特に、これを許すか許さないかが今後の好き嫌いにかなり関わると思っています。私はパクチーを未だに判断できずに頑張って食べていますが毎日全ての料理に入っていたら嫌です。
食べ方次第でいけるなんてこともありますよね。
果物をおかずとして食べるのはさすがに、、、
火を通せば好きだけど生は、、、
とか。
友だちでも恋人でも同じで、毎日他愛のない会話をしていたい人とここぞというタイミングで背中を押してくれそうな人、安心してジョークを言える人、全部別の役割としての心地良さがあるので、決めつける必要なんてないと思います。
こういう話をする相手ではないなとこちらが思っている人は、相手も同じに感じているはずだし、こちらを気にしていないようならこちらも気にしなければいいだけです。
そう思っていました。
高校生の頃、2年生のクラス替えで知り合ったAさんがいました。
Aさんは前のクラスで恋愛関係で折り合いが悪くなったのにまた同じクラスになってしまったらしいBさんの属するグループを避けて、私のいるグループにやってきました。
私は朝も昼休みも放課後も忙しい部活に所属していて、部活の仲間と席が近かったのでそのまま仲良くしていました。気づけばAさん以外が同じ部活の仲間で、話を振ってもAさんとだけ共通の話題が見つけられないので居心地がよくないだろうなと思っていましたが、Aさんは聞いているだけで楽しいのと言ってわざわざ席の遠い私たちのところへ毎日やってきました。
修学旅行の班決めの時期まで一緒にいたので、自然と私といちばん気の合うCさんと3人で同じ班になりました。
人数の都合上、6人班が最も役割分担しやすそうだったので、別の3人班と合流し、Aさんも少し過ごしやすくなっていました。
ある日の放課後に、偶然お互い暇なときがあったので2人で遊ぶと、私には無い考えをたくさん持っていることや本当に楽しんでいることがわかり、それからようやく打ち解けられた気がしました。
修学旅行が終わり、しばらくするとなんとなくAさんが素っ気なくなってきました。
そろそろまたクラス替えもあるので、向こうが仲良くしたくないならそれまでだな、と思いながらも、Aさんはなぜか私とLINEを続けていました。
2年生のクラスが終わる日、涙脆いAさんは顔を真っ赤にして泣いて寂しがっていました。
3年生のクラスが発表されると、私とAさんは同じクラスだったので、同じだねと話し、事前に発表された座席表を見ました。
Aさんの席の周りには、私と同じ部活の仲間が多くいたので、なんとなく「みんないい子だから安心してね」と言うと、
「私その部活の子たち苦手なんだよね」
と返ってきました。
わざわざ私に言う必要があるのか、それとも私は例外なのか、混乱しました。
私やCさんの他にも、Aさんが仲良さそうにしていた子の中には部員が多かったので、「私もあの子もこの子もその部活だよ〜笑」と冗談めかして返すほか思いつきませんでした。
「あなたもCさんも好きじゃないし、」
びっくりしました。
そう思っていそうだなとは予想出来ていても、わざわざ伝えてくる人がいるとは夢にも思いませんでした。
とんでもない爆弾を投げられてしまったのではないか、これを言ったことが3年生のクラスで出回ることは考えないのだろうか、
ひとりで考えても埒が明かないけれど、AさんやCさんと仲良くなる可能性のある人には相談できないと思い、口が固く今後文理も部活も関わりがなさそうな友人に相談しましたが、Aさんの性格を知らない上に私の味方でいてくれるので、新しい意見は見つかりませんでした。
意を決して同じ時をすごしたCさんに相談してみると、
「私もその話したよ。
修学旅行全然楽しくなかったって言うから私も楽しくなかったって返した。
よくわからない子にそんなに悩まされちゃいけないよ。」
と予想の何倍も強い言葉が返ってきました。
私とAさんで闘うしかないのだと察しつつも、あとの一年をどう過ごすべきなのかわからなかったので、こちらもストレートに卒業まで待たずに今すぐ縁を切りたいから3年生では話しかけるなということなのか訊いてみると、
「そんなことはない。言葉の綾だった。気にしないで。」
と言われました。
全く腑には落ちませんでしたが、無理にシャッターを下ろさないと縁が切れないと思う人もいるのだなと思いながら、新学期が始まりました。
しばらくすると、不思議なことに2年生の頃一度も近くの席になった事がないのにも関わらず、2度ほど連続で角の席でAさんと隣になってしまいました。
もやもやしながら小テストの採点などの業務的な会話を繰り返しました。
冬頃になるとまた近くの席になりましたが、お互い勉強に集中していたので可もなく不可もなく勉強に関わることだけを話して過ごしていました。
私の誕生日、Aさんは雑貨屋さんで買うようなお菓子の詰め合わせをくれました。
また訳が分からなくなりそうだったので、考えるのをやめて受け取り、Aさんの誕生日にはバレンタインのお裾分けとしてクッキーを渡しました。
しばらくして、Instagramで見かけなくなりました。
アカウントを変えていましたが、特に何もしませんでした。
Aさんは今頃どうしているんでしょうか。
私はあれから、なんとなくで「いい人だよ」と紹介するのが怖くなりました。